清水湧く武蔵野国分寺付近 2011年06月09日
高校ウォーク第百回記念となった6月9日は鈴木寅雄さん幹事で、西国分寺から国分寺までの清水湧く武蔵野を散策した。
過去には玉川上水、野上公園、等々力、などがありました。素晴らしい散策路がある地域ですね。
幹事さんのご配慮で、達筆な横断幕入りの第百回記念写真が取れました、誰かさんが口を開いていますが。
写真1:国分尼寺跡で
写真2:殿ヶ谷戸庭園
写真3:恋ケ窪用水
江戸時代の1657年(明暦3)に田の灌漑用水のため、玉川上水から分水してつくられた。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って
身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。
写真4:姿見の池
姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた
ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
写真5:
写真6:東福寺
<恋ヶ窪に残る悲恋物語>
恋ヶ窪には畠山重忠 (はたけやましげただ) と夙妻太夫 (あさづまたゆう)の恋物語が伝えられています
重忠は武蔵武士団の棟梁で、古来誠実な名将として賛美されてきた人です
一方、夙妻太夫は恋ヶ窪の遊女で、大変に美しい人であったとの事です
重忠は本拠地が男衾郡畠山荘(現埼玉県大里郡川本庁)で、鎌倉との往復の際に必ずこの夙妻太夫を訪ねました
二人の間には、遊女と客という関係を越えた深い愛情が生まれ、夙妻太夫は重忠に尽くし、重忠もまた真心でこたえようとしました。
そうした折、重忠は平家を討つため、西国に出陣する命令を受け、夙妻太夫にそれを伝えました
彼女はこれが最後の別れになることを恐れて泣き悲しみ、一緒に連れて行って欲しいと頼みました
しかし、それも叶わず、一人残された夙妻太夫は待てども待てども帰ってこない重忠の身を案じ、泣いて暮らす日々を送りました
夙妻太夫に熱をあげるもう一人の男が彼女を口説こうとして執拗に迫りましたが、
夙妻太夫の重忠を想う心は動きません。そこで、一計を案じ、重忠が西国で戦死したとウソをついてあきらめさせようとしました
夙妻太夫は絶えいるばかりに泣き伏して、姿見の池に身を投じたと伝えられます。
村人は、夙妻太夫の哀れな女心に同情して、彼女を手厚く葬って、墓の脇に一本の松を植えました
この墓印の松は、西国にいる心の夫を恋うるように、西へ西へと傾いて伸びていったといわれます
また、その葉は不思議なことに、一葉で、切ない女心を表しているのだと村人はささやきました。
その後、無事に戻った重忠は、ことの顛末をきって慟哭し、亡き夙妻太夫のためにに一堂を建立し無量山道成寺と名づけました
そして阿弥陀如来像を安置して弔ったとの事です。
写真7:東山道武蔵路(小谷さん提供)
泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は古代の道路遺構です。
東山道武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)です。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認されました。そこで計画が変更され、地下遺構を保存して、現在の道路が築造されました。
現在、その道路跡の約300メートルを歩道形式で保存しています。また、谷部へ下る切り通しの部分の遺構平面レプリカを野外展示しています。
写真8:鎌倉街道
鎌倉時代に、幕府所在地である鎌倉と各地を結び、周辺諸国の武士団や物資を運ぶ幹線道路 が整備されました。
現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたものであり、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されてい ました。鎌倉以前の幹線道路である東山道と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側−泉町交差点付近−小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面に のびており、市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側に約120メートルの道が「鎌倉上道」の名残と云われて保存されています。
写真9:武蔵国分尼寺跡
奈良時代中頃の天平13年(741年)、政治の混乱や社会不安の続く国内を仏の力で国を安定させるために、聖武天皇・光明皇后は、全国60余国に国分寺(僧寺)・国分尼寺の建立を命じました。
写真10:国分寺緑地黒鐘公園で昼食
写真11:国分寺市文化財資料展示室
聖武天皇による国分寺建立の詔(741年)、この詔(みことのり)を発せられるに到った動機は、当時大流行した疫病(朝鮮半島から九州に入り全国に蔓延した天然痘)と飢饉から国を護り、国民を救うことでありました。
写真12:国分寺楼門
写真13:武蔵国、国分寺
寺伝(医王山国分寺縁起)によれば「新田義貞朝臣此の地の分陪河原にて合戦の日当寺の堂塔伽藍一時に焼亡せり」とあり、武蔵の国が総力を挙げて建立した大伽藍も、この戦いで惜しくも灰燼に帰しました。元弘3年(1333)5月のことであります。
写真14:武蔵国分寺薬師寺仁王門吽像
写真15:薬師堂
現在の国分寺薬師堂は分倍河原の合戦で旧武蔵国分寺が焼失した後、新田義貞が建武2年(1335年)に寄進したもので、当初は旧金堂付近に建てられていたが、宝暦年間により国分寺崖線に近い現在地に移築された。
薬師堂には、平安末期から鎌倉初期の作の「薬師如来」が安置されている。作者は不明と云われるが、国の重要文化財に指定されている。
写真16:薬師堂裏の石仏
写真17:薬師堂裏の石仏
写真18:お鷹の道
江戸時代、国分寺付近は尾張徳川家のお鷹場だったことから、この遊歩道はお鷹の道と名付けられています。
夏にはホタルが舞うのを見ることも出来る。
写真19:休憩
写真20:お鷹の道
写真21:殿ヶ谷戸庭園
武蔵野の自然の地形、すなわち段丘の崖にできた谷を巧みに利用した「回遊式林泉庭園」。崖の上の明るい芝生地と崖下の湧水池、樹林で雰囲気が一変する造園手法がみどころのひとつです。
ここは、大正2年〜4年に江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘として整備され、昭和4年には三菱財閥の岩崎家の別邸となりました。昭和40年代の開発計画に対し本庭園を守る住民運動が発端となり、昭和49年に都が買収し、整備後、有料庭園として開園しました。
なお、庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来します。
写真22:次郎弁天の池
写真23:紅葉亭
写真24:紅葉亭より
写真25:百回記念反省会